ある男の“自殺未遂経験”と「死のお守り」について

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突然だが、僕は自殺未遂経験が4回ほどある。

自殺未遂経験と言っても大げさなものではなく、それがきっかけで救急車で運ばれたとか、精神科に入院するといったことは特になかった。

家族に見られてもいないから、何もなかったと言えば何もなかったのかもしれない。

自殺を試みる時間は決まって夜の11~12時ごろ。

母からの暴言や大声、音による威圧といったことから解放される時間でもあり、うつ病の症状が和らいでくる時間でもあった。

よく、うつ病などの精神病の症状の一つに“希死念慮”というものがあり、「症状が落ち着いた時が一番危ない」というがこれは正しい。

うつ病の症状が出ているときは“自殺したい”という気力さえ出てこないし、実際に実行する行動力も体力も残っていなかった。

「症状が落ち着いた時が一番危ない」が、自分にとっては「一番のチャンス」とも言える瞬間だった。

首を吊る方法はロープではなくシーツ。

「シーツで首吊りなんて、自殺ごっこだろ」と思われるかもしれないが、当時は本気で死にたかったし、シーツでも頑張れば死ねると思ってた。

というか、そもそも「死にたい」と思った時に都合よく首を吊るロープが用意されているわけでもなく、律儀に首をくくる穴が結ばれているわけでもない。

死にたいと思っていないときに、いつ来るかわからない“死にたい気持ち”を見越してロープを買ってくるなんて計画性のあることなんてこともできやしない。

だから「自宅で首を吊って死亡」というニュースが流れてくるたびに「そのロープはどこから出てきた?」と思ってしまう。

元気な時にロープを買って、わざわざ自殺用のロープの結び方をネットで調べたのだろうか。

そんな話はさておき。

首吊り以外の自殺方法もちゃんと考えた

首吊り以外の方法を考えなかったのかというと、そんなことはなかった。

高いところからの飛び降り自殺も考えたが、高所恐怖症なのでそんな場所に行けるはずもなく、そもそもそこまで行く気力もなかった。

それに、実家は車移動が必須の田舎なので、飛び降り場所まではおそらく30分以上はかかるだろう。

というかほとんどの建物には鍵がかかっているだろうから現実的ではないのかもしれない。

電車への飛び降りも考えたが、駅まで30分以上も車で運転しなければならない。もちろん、そんな気力はあるはずがない。

車で練炭自殺も考えたが、どうやらテープか何かで車の隙間を埋めないとうまくいかないらしい。

そうしないと長く苦しむ上に死ねないとか、死んで楽になりたいのに生きて苦しみを味わうなんて意味が分からない。

様々な自殺方法を考えてみたが、一番手軽そうな方法が首吊りだったので、この方法を選んだ

長々と自殺体験について書いてきたが、結論は…死ねなかった。

4回も実行して1回も成功しなかった(ただ、4回目は一番うまくいった気がする)。

毎回、自殺に失敗しては「自分はまともに死ぬことすらできないのか」と途方に暮れながら、深夜3時頃まで、ぶつぶつと「死にたい」という言葉を口から垂れ流しながら、力尽きて寝落ちするのがお決まりのパターンだ。

そして、朝の10時頃に目覚めた僕は「そういえば昨日首を吊ったんだった、死ねなかったな」「今日も朝が来てしまった」「今日も一日が始まってしまった」と憂鬱な気持ちになりながら、何もしない一日が始まるだけだった。

けど、4回目の自殺未遂を最後に、僕は二度と自殺を試みることはなくなった。

別につらさがなくなったとかではなかった。

自分の中に『死のお守り』ができたのが理由だった。

死にたい気持ちがあるから頑張れる『死のお守り』

「いざとなれば死ねばいいや」という言葉が『死のお守り』だ。

僕は最後の首吊り経験の手ごたえにより、「次はいけるかもしれない」「次こそは死ねるぞ」という、曖昧で不確かな自信を手に入れた。

そうすると、“死のうと思えばいつでも死ねるんだから、いま死ななくてもいいや”という気持ちが急に芽生えてきた。

一種の諦めというか、開き直りというか。

どちらかといえば“開き直り”という言葉の方がニュアンスは近いかもしれない。

少し話が変わるが、自殺とか死に関する番組を見ていると、よく「死んじゃだめだ」といった言葉が出てくる。

もちろん、この言葉自体は否定しないし、この言葉によって救われる人もいるだろうから、強く否定はできない。

だけど、死にたい気持ちがあるから頑張れるってこともあると思うんだよ。

人生でつらくなったときに“死”という逃げ道が用意されているということは、“死にたい”という気持ちから救うきっかけになると思うんだよ。

そしたら、自分はもう死ぬ予定だから「最後においしいものでも食べよう」とか「最後に会いたい人に会っておこう」とか考えて、一瞬でも死から思考を逸らす、言うなれば少しでも“死を先延ばし”にしてくれるかもしれないんだよ。

一瞬でも「死ぬのをやめよう」と思ったら、ちょっとの間は大丈夫。

死のうと思うだけでも、気力・体力、それに神経を擦り減らすから、すぐに二回目に行動を移すことは難しい(と考えている)。

それで、実際においしいもの食べたり、会いたい人に会うことで「もう少し頑張ってみようかな」と長めに死を先延ばしにしてくれれば万々歳よ。

「いざとなれば死ねばいいや」という気持ちが死から遠ざける。

なんだか矛盾しているように感じるかもしれないけど、死のお守りにはその可能性があると思ってる。

なのに、死にたいという人に対して「死んじゃダメだ」というのは、生きたいという気持ちを自分で否定している人間に対して、さらに他者から死にたいという気持ちまでも否定されてしまったら、一体その人はどうなってしまうのだろうか。

前も後ろも、右も左も、上も下も塞がれてしまって、“死”という最後の逃げ道までも奪われてしまったら、もうその場に膝から崩れ落ちて、自ら命を絶つ以外の方法は残っていないじゃないか。

だから、死にたいと打ち明けられた人には「その人の死にたいという気持ちを否定しない」という選択肢を。

死にたいと思ってる人には「いざとなれば死ねばいいや」という『死のお守り』を持つことを覚えておいてほしい。